雨が止みません

 

小さい頃、休日に雨が降るのが嬉しかった。

 


朝目が覚めて部屋の中が薄暗いのでカーテンを開けると雨が降ってる


そういう時はなぜかほっとした。

 

 

こんな雨じゃみんな出かけられない!退屈なのは自分だけじゃない!と、

ようは自分だけ予定がなく鬱屈とした気持ちでひとりで休日を過ごすのが嫌という心情なんだけど、幼かったとはいえ浅はかな考えだなぁと昔の自分に少し嫌気がさす。

 


それでも、きっとクラスの友達はどこか出かけるんだろうなーとかそういうことを想像して自分は予定もなくただやり過ごす休日が嫌で、天気が悪いとこの世の中のみんなの足並みが平等になった気がして安心した。

 

 

 

そういう気持ちは十数年経った今もある。


むしろ今の方が他人がどんなことをして過ごしてるかとかどんな贅沢なことをしてるかとかそういうのをリアルタイムで目の当たりにするから自分の一日と他人の一日の価値を比べてしまう。

 


だからなるべく外に出るし誘いにも乗るし色んな予定を詰める。

なにもしない、誰とも関わらない日がすごく嫌だった。

 

 

そんな日は自分がこの世から置き去りにされてる気がして、自分の人生が一体何日あるか知らないけどその中の貴重な一日を世の中に存在しない幽霊として無駄に消費してしまった、となんとも言えない気持ちに苛まれた。

その一日を認めたくなくてずるずると無駄に夜更かしもした。

 


誰とも会ってない今日、わたしのことを一瞬でも考えてくれた人はいるんだろうか、

そんなことを考えると突然の孤独感や焦燥感に押しつぶされそうになるのでそれを緩和する苦肉の策としてインスタで質問コーナーをやったりコメントで見知らぬ誰かの反応を貰ったり、ネット上でもいいから他人と関わって自分の存在を少しでも意識してもらうことで心の隙間を埋めようとする。

 

もちろんそんなものでは少しも埋まらないのはわかってる。インスタントで承認欲求を一時的に腹を満たしても心の奥底は継ぎ接ぎだらけになるだけだった。

 

 

 

 

 

2020年は思いもよらないウイルスの出現で色んなことが上手くいかなかったり娯楽や楽しみな予定や会いたい人に会う機会をたくさん奪われてしまった。


大好きな旅行も海外も去年の半分も行けてない。

 


それでも自粛ムードの数ヶ月間、なぜか小学生の頃のあの気持ちを思い出していた。

 

みんなが自粛を強いられていて海外旅行も美味しいご飯も行けない。

 


小麦粉がスーパーから消えるほど家で一斉にお菓子作りをする自分と同じような人たちを見てみんなが同じ高さのステージで今暮らしているんだなと妙な安心感を得ていた。

 

 


ステージなんて言い方おかしいかもしれないけど今は他人の暮らしぶりがどうしても目に入ってきてしまうから、なんとなく自分たちが生きる世界を何段階も高さのあるステージみたいにSNSを通して可視化してしまっているような気がする。

(もちろん、SNSで見せる暮らしなんて良いところだけを切り取ってるんだけど)

 

 

だからみんなが同じ高さのステージで生活していた数ヶ月間だけは、ぬるま湯に浸かってるような安心感と毎日報道される未知のウイルスに対する恐怖心とが自分の中でせめぎあっていた。

台風や大雪の時にわくわくする子供みたいだ。

 

 

 

去年までの暮らしはまだ戻ってこないし未だに増減する感染者数に毎日一喜一憂してるけど、小麦粉がスーパーから消えることはなくなったし画面越しで乾杯することもなくなった。共存と言う形で少しずつ日常を取り戻しつつある。

 

 

 

 

 

 

わたしはどちらかというと刹那的な生き方をしてるから他人に人生楽しそうでいいなーなんて言われることが多々ある。

 


たしかに日々新鮮で面白いことは沢山あるし色んなことを経験して楽しい人生だなぁとも思う。

 


それでもこういう漠然とした孤独感とか何をしてもどこか満たされない気持ちは常に心の中の奥の方に渦巻いて消えない。消し方もわからない。

 

 

 

 


急に襲ってくる孤独を違う角度から楽しめたりそういう負の感情も人生のひとつの醍醐味として昇華することが出来なければ、この先も土曜の朝に窓をのぞいて空から落ちる雨を見てはほっとする、ずっとそんな人間のままなんだろうなとこれを書きながらぼんやり思う。

 

 

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